タッキーのやっぱり聖書でしょ
- Rev. Jun Takii
- 10 時間前
- 読了時間: 5分
「信仰の冒険」という言葉がボクは好きです。
確実に成功することが約束されている事ならば、それは冒険と言いません。冒険というものは、「もしかしたら失敗するかも、どうなるか分からない、でもやってみる」、という響きがあると思います。
僕らは生ける神を信じています。(ただの倫理的な教えを説くだけの宗教ではなく。)それならば実生活の中で、自分の力に頼るだけではなく、もっと神にチャンスを与えて働いていただく、というのはどうでしょうか?
アメリカの教会では「信仰を持って一歩踏み出す。Step out in faith」とかよく言います。伝道においても冒険をしてみる。伝道も自分の力だけでやっていませんか?自分の力、想定の範囲内のみ、自分の計算の外側には行かない、これまでの伝統の枠内だけで計算ずくな行動のみ、などなど。
クリスチャンとしての生き方においても、教会生活のなかで、伝道において、すべて自分のComfort zoneの中だけ、自分の中で計算して可能なことだけで、またこれまでと同じ形式に捕らわれて、伝統に縛られて、すべてをやってないでしょうか?教会というものは、すべて人間の知恵のみ、またバジェットの中だけでやっていたら、イエスが必要なくなってしまいます。
黙示録3:20にあるラオデキアの教会はまさにそうです。イエスから「なまぬるい」と言われた教会。「私は富んでいる」と思っていたが、実はイエスさえも教会の外に出してしまっていた。だからイエスが戸の外に立って叩いていた、「私を中に入れてくれ」と。これは未信者に対しての言葉ではなく、教会に対しての言葉。神がそう言われるんであれば、自分にはこれしかないけど、いっちょやってみよう!という人たちが聖書にたくさん出てくる。
ヨハネ6:1~ 大勢の人たちを養ったとき、その食事を出したのは?少年、しかも小さな5つのパンと2匹の魚のみ。誰もが、こんなんで何になる?!と思ったことでしょう。自分にできることだけすれば、Naturalなことをすれば、その後のSupernaturalなことは神がなさること!奇跡を見せさせていただく、というのは、本当にそれに参加した人たちに大きな影響を与えると思います。
例:カナでの婚礼 ヨハネ2章。そこにいて、実際に働いた人たちにしか分からなかった。他の人達には、まったく分からなかったこと!
水がめを水でいっぱいにする(誰でもできるNaturalなこと)。水をぶどう酒に変える(神にしかできないSupernaturalなこと。)「水を汲む者の祝福」と言われます。神の働きに参加した人たちだけが見る事のできる、神の奇跡!
神は力を現したくてしょうがない!でも、伝道の働きというものは、神は人を用いてする、と決められた。Without Him (God), we can't. Without us, He won't. 神無しでは我々はなにもできない。でも我々無しで神はなさらない。
何万人をも僅かな弁当で養われたように、神様にとって我々が持っているものの大小などあまり関係ない。神様にとって、我々のAbilityが必要なのではない。我々のAvailabilityが必要なんです。もしその時、少年や弟子たちが、「いやぁ、こんな小さなものじゃあ、なんにもならない。恥ずかしい。出すのをやめよう」と思ったらどうだっただろう?もしかしたら何も起こらなかったかも。
趣味でも何でも、何年もやっていれば、人に教えたくなる、シェアしたくなる、勧めたくなりませんか。何年間も同じこと熱中してやっていて、「あなたには何年やっていても、他の人にこのことを語る資格はない」なんて、そんなこと言われたら怒るでしょ?何年も聖書に興味があってクリスチャンやっている人が、「いやあ、私は牧師じゃないから、聖書は伝えません。伝えられません」というのはおかしいと思いませんか?!
僕らは、あまりにも神様にではなく、人に頼ったり資格に頼ったりしてないでしょうか?
誰々さんの話には、特別な力があるとか、そんなことあるのでしょうか?何に力があるのか?やっぱり神から手渡された聖書に力があるのだと思う。
どうか一人ひとりが聖書のことばに頼って欲しいと思います。会社にとってEmployee Handbookが全てであるように。職場で部下の間で何かトラブルがあったとき、まずどこに行くか?Employee Handbookに行く。何かを購入したときに、契約書がすべてのように。
今は情報が溢れているし、様々な意見がある時代。探しさえすれば、自分がやりたいことを正当化してくれる本や、記事や、クリスチャンたちはいっぱいいます。それが聖書にないことだとしても、まちがったこじつけの解釈であったとしても、あたかも聖書にあるかのように言う人たちはいっぱいいます。
「聖書を誤りのない神の言葉」とし、どんなメッセージでもどうか聖書に照らし合わせて、それが神の言葉と合っているかを調べないといけないです(例えば使徒17:11の、ベレヤのクリスチャンんたちの姿のように。)すべてを鵜呑みにしたら危ない。何が僕らのセーフティーガードか?聖書です。時にボクは間違ったことを過去にも言ってきたし、これからも言うでしょう。でも聞く人たちが聖書に照らし合わせて確認する信仰を持っていれば、語る側も安心できます。
使徒4章13節 ペテロとヨハネ・・・無学な普通の人達。イエスと共にいた、というだけ。
アーバイン日本語教会では、「チームミニストリー」をこれからも言ってきたい思います。神はここに集まっている一人ひとりに何らかの賜物というか得意分野、やったら楽しくなること、を与えてくださっていると思います。それを一人一人が用いていくだけです。
強制されてでもなく、いやいやながらでもなく、本当にやりたいと思うことが必ずあるはず。それを奪うことなく、皆でやっていけば良いのではないでしょうか?
マタイ25章のタラントの例え・・・与えられたものをただ使うだけ。人と比べることなく。まずいのは何もそれを使わずに隠しておくこと。
神様へのミニストリー(仕える)のはHave to(~しなきゃいけない)ではなく、Get to(~する機会がある)。
やってみてダメだったり、違うなーと思ったら、やり直せばいいのでは。自分主体ではなく、神様主体です。ボクが15年前に開拓伝道を始めた頃は周りの信仰の先輩たちから「Don't take yourself too seriously」とよく言われました。「自分で背負いこみすぎるな、失敗してもいいんだ。間違ったらやり直せば」という意味です。
僕らの欠点だらけの器を用いてでも、神様は御業を成してくださる。信仰の冒険なんだから、失敗してもいいじゃないですか。何かやっていきましょう。その方がこの世でのクリスチャン生活は楽しいと思いますよ。
「水を汲む者の祝福」で、そこに参加した人のみが得る喜びがそこにあると思いますので。

コメント