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タッキーのやっぱり聖書でしょ

ユダヤ人以外に福音が伝えられ始め、異邦人(ユダヤ人以外の民)が救われ始めた初代教会。


そこで出てきた議論の一つが、「異邦人もユダヤ人のようにならなければならないか」、ということ。そこで起こったのがエルサレム会議(使徒15章)。

異邦人(非ユダヤ人)のキリスト教徒が救われるために「モーセの律法」を守る必要があるかという論争があって開催された。パウロの伝道で異邦人が増える中、律法を守らねばと主張する一部のユダヤ人クリスチャンたちがこれを主張し、教会分裂の危機を招いた為でした。

使徒15章のエルサレム会議で決まったことの争点は、「 異邦人は救われるために割礼を受け、モーセの律法に従う必要があるか」、というもの。救いは律法か、信仰か?その答えは結論から言うと「今は恵みによって救われている。律法ではない」(この使徒15:9-11でのペテロの言葉が涙が出るほど嬉しい!)

「神は異邦人の心を信仰によってきよめてくださった。だから異邦人に、ユダヤ人でさえ負いきれない重荷を負わせないこと。彼らユダヤ人でも出来ない事をなぜ異邦人たちに負わせようとするのか」、と。

使徒 15:28  「聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな重荷も負わせないことを決めました。」

使徒 15:29 「すなわち、偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行 とを避けることです。これらのことを注意深く避けていれば、それで結構です。」以上。それだけ。

異邦人の救いに「重荷」は必要ではない。ただ以下の4つを避けるように。これ以外、異邦人に重荷を負わせるな、と。

①偶像に供えた物、②血、③絞め殺した物、④不品行 (結婚以外での性的な関係)

使徒15章で、割礼など受けなくてもいい、ということになったのにも関わらず、ガラテヤ書が書かれた頃にはペテロでさえも、文化的にまたその影響力に屈し始めた。これはペテロでも、このように、文化的プレッシャー、仲間からの同調圧力に負けてしまう、という良い例です。

ちょっと油断するとボクら現代のクリスチャンでも、福音に色んなモノを足し始める。その中にいると、その中に染まってしまう。仲間はずれにされたくないから。

そんな時、やっぱり行くべきところは、この聖書。他のクリスチャンが何と言おうと、著名な牧師が何と言おうと、それって本当に聖書的かどうか聖書を調べるという習慣が必要です(使徒17:11)。

『キリスト教の信仰は、ある本の上に基盤を置いている。クリスチャンにとってどの時代も、神と人類についての一つの至高の、また包括的で総合的な知識の源がある。その書物の集合体が「聖書」として知られるこの本である。また、この書がすべての事柄の最終的な神の言葉であり、究極的・最終的な権威である。』Don Stewart

ガラテヤ2:11-14で、パウロは相手がペテロであっても、間違っていたら面と向かってそれは違うと抗議した。

なぜ私たちは聖書を知らないといけないか?それは間違った教え、薄められた教え、人のご機嫌取りや、この世に迎合した教えが、いかにも聖書の当然の教えかのようにはびこっているから。

頼るべきは、やっぱり聖書なんですね。

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