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タッキーのやっぱり聖書でしょ

ユダヤ人以外に福音が伝えられ始め、異邦人(ユダヤ人以外の民)が救われ始めた初代教会。

そこで出てきた議論の一つが、異邦人もユダヤ人のようにならなければならないか、ということ。そこで起こったのがエルサレム会議(使徒15章)。

エルサレム会議で決まったことの争点は、「 異邦人は救われるために割礼を受け、モーセの律法に従う必要があるか」、というもの。救いは律法や行いによるか、信仰や恵みによるか?その答えは「今は恵みによって救われている。律法ではない」と先週書かせてもらいました。


ガラテヤ5章にて、「キリストは自由を得させるために私たちを解放してくださったのですから、私たちは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい(1節)」、とパウロはハッキリと言います。

割礼を強要するユダヤ人信徒たちがいた。でもそれをしたら、イエスは私たちに何の益ももたらさないことになる、と(2節)。

割礼が必要だと言うようなら、律法全体を行う義務が出てきてしまう(3節)。律法によって義と認められようとしているなら、私たちはキリストから離れ、恵みから落ちてしまう(4節)。

私たちは義とされる望みの実現を、信仰により御霊によって待ち望んでいる、と(5節)。


「でも恵みだけでは、人は変わらないのでは?」という考えがちではないですか?「律法も守らせないといけないのでは?」と思いがちですが、本当にそうですか?

規則規則、校則校則で押さえつけられて育ってきた日本人が、全ての人種に勝っていますか?奉仕の面、優しさの面、人助けの面において。

ガラテヤ3:23-25  律法は私達をキリストに導く為の養育係だとあります。それでしかないのだと。

この厳しい辛い世の中にあって、クリスチャンの中では、教会の中ではもっと恵みがあっても良いのでは?寛容、赦し、柔和などなど。

ガラテヤ5:22-23に御霊の実が書いてあります。神につながっていれば、御霊によって歩んでいれば、御霊の実はなると。

5章18節 御霊によって導かれているなら、もう律法の下にはいない、とあります。

人は恵みによって変わるんです。律法を義務で守るのではなく。

2テモテ2:1で、パウロは信仰の息子であるテモテへの最後の言葉の一つでこう言っています、「私の子よ、キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい」と。

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