悲しむ人々は幸いです
- Rev. Tsukasa Sugimura
- 5月25日
- 読了時間: 2分
今回は東京聖書学院の『学院だより』(2024年秋号)の巻頭言を執筆した安井聖牧師の証しメッセージである。彼は東京聖書学院の准教授で、一昨年の北米夏季修養会の主講師でもあった。心に深く響いてくる内容である。
「以前、わたしは、とても悲しい経験をしました。本当は辛いはずなのに、わたしは自分にこう言い聞かせました。こんなことで何をくよくよしているんだ。こんなの大したことじゃない。気にしなくていい。もうこのことに心奪われるのはやめよう。わたしは悲しみに飲み込まれてしまうのが怖かったのだと思います。だから何とか忘れようとしました。しかし、心の中にいつまでも引っかかっていて、ふとした拍子に思い出しては心が痛くなるのです。
そんな時に、わたしが大変尊敬しているある牧師の説教を聴きました。その牧師はこう言われました。『どんな人間であっても、皆それぞれに自殺するだけの十分な理由を抱えて生きています。子どもであっても、老人であってもそうです。わたしもまた電車のホームに立っていて、その中に飛び込みたくなる衝動を覚えることがあります。しかしその時に思う。わたしは信仰によってこの衝動と戦わせていただいている。その信仰とは、自分で自分に向かって、わたしの悲しみなんて大したことない、と言い聞かせることではない。その信仰とは、この主イエスの言葉の前に立つことです。[悲しむ人々は、幸いである/その人たちは慰められる](マタイ福音書5章4節)。自分の力で自分の悲しみを打ち消して、何とか悲しみの解決を手にして、それからやっと神の前に立つことができるというのではありません。わたしたちは自分でどうすることもできない悲しみを抱えている。そんな悲しんでいるわたしたちに向かって、主イエスは、あなたは幸いだ、と語りかけてくださる。わたしがあなたを必ず慰める、そう言ってくださる。だからこそわたしたちは悲しみを抱えたままで、神のもとに行くことができる。どんなに悲しみが大きくても、それに飲むこまれることはありません。主がわたしたちと共にいて、主が慰めてくださるからです』」。
わたしはこの牧師の言葉に、とても心打たれました。わたしがどんなに悲しく辛くても、絶望に飲み込まれないで生きる道が与えられていることに!
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