生と私の間
- Rev. Tsukasa Sugimura
- 4月27日
- 読了時間: 2分
今回の記事はジョージア州アラバマにあるウェスト・ミンスター教会の『創立15周年記念誌』の中の証しの作者、宮内美恵子氏からの抜粋引用である。
【「死ぬ」ということは、人間の大きな悲しみです。この悲しみをいかに克服するかが、私の人生の課題ではないかと考えるようになりました。その頃、主人がアメリカへ赴任することになりました。私が渡航するに際し、持参しました本の中に、『別れの日まで』という題の曽野綾子さん、尻枝正行神父の往復書簡がありました。後日、その本を読んでゆく中で、私の心に響く数々の文章を見出したのでした。その中でも、「待つことを知らない人間に、神は死の面をもって盗人のようになってくるのに、生き生きした心で待つ人間のところには神は友のように、いや花嫁のようにやってくる。待つ心に実は人生の幸福も宿る…」という文章は、私の心に「アッ!」というような衝撃を与えました。そしてそれに引き続く次の文章、「まことに死は生の完成です。人は生きたように死ぬものなのですね」。これはその時の私の問題「死」についての解答だったのです。「死」というのは生の完成なのだ。「よく死ぬ」ためには「よく生きなければいけない」と改めて認識したのでした。以前、ある講演を聞いて感動したことを思い出しました。それは「老人学」の講演で、その講師は結びに、「…大きな太陽が穏やかに水平線に輝きながら静かに沈んでゆく。そんな死を迎えたいものです」と語られ、はからずも涙ぐんだことを思い出したものでした。
与えられた人生をいかに充実させるかは、自分を深く見つめ、小さな事々をいつも感謝することから湧き上がる喜びによって満たされるものではないでしょうか。そして神を待つ心が死を悲しや苦しみから、喜びに変えてゆくのではないかと思います。日々聖書を読み、祈る時、神が私に語りかけて下さっているのを感じます。この与えられた「生」を大切に充実させたい。そして「生」の完成としての「死」の日を喜びを持って静かに迎えたいと思います。】
旧約最大の預言者イザヤは、「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得」(40・31)と語る。たとえ多くの労苦があったとしても、主を待望するところに、今日を生きる力が湧き上がるのであり、そこに信じる者の生きる喜びがある。
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