タッキーのやっぱり聖書でしょ
太宰治の短編小説に「トカトントン」という作品があります。
戦争が終わった後、一人の青年が作家に手紙を書きます。青年は、何かに感動したり、一生懸命になったりすると、どこからともなく「トカトントン」という音を聞くんです。すると、それまで熱くなっていた心が、急に冷めてしまいます。
「そんなことをして、何になるんだろう。どうせ、何をしても同じだ。」
「トカトントン」という音は、人生に対する希望や情熱を打ち消してしまう、心の中の声のようにも思えます。
「こんなことをして何になるんだろう」と、何もかもがむなしく感じられてしまいます。
この「トカトントン」は、私たちの心の中にある「どうせ無駄だ」「何をしても仕方がない」という声にも似ています。皆さんも、そんな声をよく聞きませんか?ボクはよく聞きます。
実は、この作品の最後に、太宰治は聖書の言葉を記しています。それが、マタイによる福音書10章28節です。
「身を殺して霊魂(たましい)をころし得ぬ者どもを懼(おそ)るな、身と霊魂(たましい)とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ」
なぜ太宰は、「トカトントン」の最後にこの言葉を置いたのでしょうか。
私たちも人生の中で、心が冷めてしまうことがあります。
「祈っても無駄だ。人を赦しても仕方がない。希望を持っても、どうせうまくいかない…。」そんな「トカトントン」が、心の中に聞こえてくる時に、イエスは人を「おそれるな」と言われます。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい、神に対して畏敬の念を抱きなさい、と。
人の言葉や世間の評価によって傷つくことがあっても、私たちの本当の価値を決めるのは、人ではありません。
神が私たちを愛している。私たちは神の子どもとなっている。そのことは、誰にも奪うことができません。
信仰とは、「トカトントン」の音が聞こえてきても、それでも神を信頼し、おそれる(畏敬する、敬う、尊ぶ)することです。
「どうせ無駄だ」と思うときにも祈る。希望が見えないときにも、神を見上げる。時に難しいですけどね・・・。
今日も私たちの心に「トカトントン」と響くことがあるかもしれません。そのときこそ、イエスの「人をおそれるな」という言葉を思い出しましょう。
私たちの心を冷ましてしまう音よりも、神の恵みのほうが、はるかに大きいのだから。
それに私たちの周りには、神に励まされるだけではなく、お互いに祈り合い励まし助け合える神の家族であるアーバイン教会の兄弟姉妹もいます。
トカトントンという音が聞こえる中でも、神を見上げ、また周りの兄弟姉妹たちと共に歩んで行きましょう。

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