タッキーのやっぱり聖書でしょ
ヨハネの福音書11章には、ラザロの死を悲しむ人々を見て、イエスが涙を流された場面が記されています。
イエスは神の御子であり、死に対する権威を持っておられるお方です。それでも、愛する人を失って悲しむマルタやマリア、そして周囲の人々の姿を見て、心を動かされ、ご自身も涙を流されました。神の御子が、人の悲しみを前にして涙を流された。この姿に神様の愛の深さを見ることができます。
私たちは人生の中で、何度も問いかけます。「なぜ、こんなにも悲しいことが起こるのだろう。なぜ、まだ生きていてほしい人が事故、病気などによって命を失わなければならないのだろう」と。
その問いに、簡単な答えを見つけることはできません。愛する人を失った悲しみは、簡単に癒やされるものではないからです。しかし、聖書は、悲しみの中にいる私たちに、神様がどのようなお方であるかを示しています。神様は、私たちの苦しみを遠くから眺めておられる方ではないのです。その悲しみ、その痛みをご自身が御子イエスが処刑されるという形で体験されました。
陸軍大将の乃木希典は非常に人々に深く慕われ、尊敬されました。日露戦争の旅順攻略戦などで多くの部下を失った際、その重い責任をすべて自分に帰し、亡くなった兵士たちやその遺族に対して深い罪悪感と慈悲を持ち続けました。自身もすでに長男を戦いで失っていた乃木将軍は、次男までも戦死によって失いました。
乃木将軍夫妻は、息子たちの死に際して、ほかの兵士の遺族への責任を重く受け止めていたと伝えられています。「多くの国民が我が子を国に捧げている中で、司令官である自分の息子だけを安全な場所に置いて特別扱いすることは絶対にできない」という信念を貫き、2人の息子を前線へ送り出しました。日露戦争の激戦地・203高地で次男の保典(やすのり)が戦死したという報せを旅順の戦地で受け取った際、乃木将軍は周囲に対して以下のように述べたとされています。
「よく戦死してくれた。これで世間に申し訳が立つ。」
人は、苦しみを経験することによって、初めて深く理解できることがあり、自分が大切な人を失って初めて、同じ悲しみを経験した人の痛みが少し分かるようになるのかも知れません。
では、私たちの神様はどうでしょうか。イエスは人となり、私たちと同じ世界を歩まれました。悲しみ、苦しみ、涙を流されました。そして、十字架において、私たちの罪を負い、命を捧げてくださいました。ヘブル人への手紙4章15節には、イエスは私たちの弱さに同情できない方ではない、と記されています。
父なる神様は、私たちを救うために、愛するひとり子を与えてくださいました(ヨハネの福音書3章16節)。
この愛の大きさを思うとき、私たちは言葉を失います。神様の愛は、ただ「あなたを愛している」と語るだけの愛ではありません。私たちを救うために、ご自身の御子を与えてくださった愛なのです。
私たちは、苦しみの中で祈れなくなることがあります。「神様、なぜですか」と問い続けることもあるでしょう。しかし、イエスご自身が涙を流されました。十字架に向かう前に、「できることなら、この道は通りたくない」と、父なる神に祈られました。信仰があるから泣いてはいけない、いつも強くなければならない、葛藤がないということはありません。
もちろん、すべての悲劇に簡単な意味を見つけることはできません。苦しんでいる人に、かける言葉がない時もあります。それでも神様は、その苦しみの中で私たちを慰め、時には自分が受けた慰めを他の人に分かち合う者へと変えてくださいます。
自分が涙を流したことがあるからこそ、泣いている人のそばに静かに座ることができる。自分が弱さを経験したからこそ、苦しむ人を裁かず、その痛みに寄り添うことができる。第二コリント人への手紙1章4節が教えるように、神様からいただいた慰めを、ほかの人へと届けることができるのです。
ヨハネの福音書11章で、イエス様は涙を流されました。私たちの神様は、涙を流す人を遠くから見ておられるだけの神ではありません。天で私たちをただ眺めているだけの、苦しみや悲しみ痛みを知らない箱入りの神ではありません。私たちの悲しみを知り、弱さに同情し、苦しみの中に寄り添ってくださる方です。
だからこそ、私たちもまた、悲しむ人と共に悲しみ、泣く人と共に泣く者でありたいと思います(ローマ人への手紙12章15節)。

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