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タッキーのやっぱり聖書でしょ

23 時間前
読了時間: 3分

ヨハネ11章には、「イエスは涙を流された」とあります。これからラザロをよみがえらせることを知っておられたイエスは、なぜ涙を流されたのでしょうか。

もちろん、イエスは人として生まれ、人間の感情を持っておられました。悲しみ、苦しみ、涙を流すことを恥じることもありませんでした。神であられる方が、人間の弱さや悲しみを真正面から引き受けてくださったのです。そこには、深いへりくだりがあります。

しかし、イエスの涙には、単なる悲しみ以上のものがあったのではないでしょうか。人間は、初めから死ぬために造られたのではありません。しかし、罪が世に入り、人間は死に支配されるようになりました。私たちは「人間だから、いつか死ぬのは仕方がない」と考えがちです。しかし、死は神が人間に与えられた本来の目的ではありません。だからこそ、イエスの涙には、「これは本来あるべき姿ではない」という、罪と死に対する深い痛みと憤りが込められていたのではないでしょうか。

ルカ19章では、イエスがエルサレムをご覧になり、激しく泣かれました。人々が神の救いを拒み、神から離れて滅びへ向かっていく姿を見て、心を痛められたのです。ヨハネ11章とルカ19章に共通するのは、人間が滅びていくことに対するイエスの深い悲しみです。神は、人が滅びることを冷静に眺めておられる方ではありません。人を愛しておられるからこそ、その人が苦しみ、神から離れていく姿を見て怒り、悲しまれるのです。

怒りという感情は、必ずしも悪いものではありません。「こんなことは絶対にあるべきではない」という正義への思いが、行動の原動力になることがあります。

ヨハネ2章で、イエスが神殿の両替人の台を倒された姿にも、神のものが歪められることへの強い憤りが表れています。イエスは罪や不正に無関心な方ではありません。ラザロの死を前にしても、「これは本来あるべき姿ではない」という思いを抱かれたのではないでしょうか。それは、愛する人間が死に支配されていることへの、深い悲しみだったのです。

では、私たちはこのイエスの心を、どのように受け止めればよいのでしょうか。イエスは、救われていない人々を見て涙を流されるほど、慈悲深い方です。パウロもまた、同胞が救われるためなら、自分が呪われた者となってもよいと願いました。そこに、イエス・キリストの心が表れています。そしてイエスは、私たちを救うために、実際に十字架で死んでくださいました。私たちをかわいそうに思うだけでなく、ご自身の命を与えて、死の力を打ち破ろうとされたのです。ここに福音の中心があります。

ピリピ2章5節には、「キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい」とあります。私たちも、イエスの心を自分の心としたいのです。神がひとり子を十字架に渡してまでも打ち破ろうとされたのは、罪によって人間を支配する死でした。だからこそ、イエスがラザロをよみがえらせた出来事には、大きな意味があります。

死んだ人は、自分の力で生き返ることができません。霊的に死んでいた私たちも同じです。努力して良い人間になろうとすることや、宗教的な行いを重ねることによって、自分で命を得ることはできません。死んだ者に命を与えられるのは、イエスだけです。

ラザロが自分の力ではなく、イエスの呼びかけによって墓から出てきたように、私たちの救いも、自分の努力によって得られるものではありません。イエスを信じることによって、死んでいた私たちに新しい命が与えられるのです。

ラザロを墓から呼び出されたイエスには、死に打ち勝つ力があります。そして、そのイエスは今も生きておられます。イエスの涙に込められた、罪と死への憤り、そして滅びゆく人間への深い愛を、私たちも心に刻みましょう。そして、この救いをまだ知らない人々に、神から差し伸べられた福音(グッドニュース)を伝えていきたいですね。

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