愛を受ける幸い
- Rev. Tsukasa Sugimura
- 8月24日
- 読了時間: 2分
今回は、渡辺秋治というフリーメソジスト教団牧師の生涯を描いた、渡辺けさえ作の『主による歩みの跡』からの引用である。実に覚醒の一作である。
渡辺秋治牧師が、ある美くしく整ったレストランで友人の串野氏と昼食を頂いた時のこと。私が、「一人になったのだから、今後は人に迷惑をかけない様にしなければならない」と言った時に、その友人は、「それはよい事だが、それが自我を通す事であり、また人の親切をこばむ事になってはよくない」と応答したのである。内村鑑三の書物の中に、その当時アメリカの最も人気歌手の一人であったアデレイト・A・プロクトルの次のような文言が紹介されていた。
「愛のために真心をもって惜しまずに与える人は大なり。されど、愛の為に臆せず物を受くる人は、更に大なりと称えられん」と書いてある事を思い起こし、私は串野氏の忠告を感謝した。「互いに愛し合うことのほかは、何人にも借りがあってはならない」(ローマ13・8)と言うパウロの言葉も思い出される。
この会話を聞きながら、「受けるよりは与える方が、さいわいである」(使徒行伝20・35)という聖句が思い出され、困惑してしまった。受けるのがさらに幸いという、友人の真意が分からなかったからである。私たちは、とにかく「他人に迷惑をかけないように」というマジック・ワードがあり、何事においても、家族や友人たちの足でまといにならないようにと教えられてきたからだ。
一方、常日頃聞く言葉に、「親孝行をしたいと思った時には、もう親はいない」と言うことを聞く。子はいつか親に恩返しをしたいと思っていたのだが、そのチャンスがなかったと言う嘆きである。ここに親と子の考えに行き違いがある。
先日、どうしても娘に家内のライドをお願いしなければならない事があり、お願いしたところ、娘は、「喜んでするからね」との返事であった。愛ある行為は重荷ではなく喜びである。主イエスがご自分の命まで与えても、私たちに仕えてくださった十字架には、ただ父への賛美だけがある(詩篇22・3、25)。愛には借りも何もない。ただそこには一方的な神の愛だけが漂うのである。




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