親の恥をすすぐため
- Rev. Tsukasa Sugimura
- 5月30日
- 読了時間: 2分
戦時のアメリカでは、フル装備で重量50キロ近い背嚢を背負って何マイルも走って軍事訓練をする。屈強なアメリカ兵士たちでさえも途中で何人も落伍する。でも小さな体の二世兵士は、一人も脱落することなく帰って来たという。
1944年末、 第36師団長J・E・ダールキスト少将が兵役から除隊する二世部隊を閲兵するために、「日系兵士を集めよ」と連隊長代理のミラー中佐に命じたことがあった。ところが、整列した兵士があまりに少ないのを見とがめ、次のように言った。「部隊全員を整列させろ、と言ったはずだ」。それに応えて中佐は、「将軍、目の前に居るのがその全員です」と答えたのだが、それを聞いた少将はショックのあまり、スピーチできなかったという。これは師団編入時には約三千名近くいた兵員が八百名ほどにまで減っていたからである。どうして二世はそこまで戦えたのか、それはひとえに親の恥を雪ぐためであった。
一世にとって彼らの子供たちである二世は、アメリカで生きてゆく上での希望であった。一世が生死に関わる迫害や差別を乗り越えて、生きてゆくことができたのは、まず何よりも二世が自分たちと同じような痛みを経験することがないようにと願ったからであり、そのために一世は日本人としての誇りをもちつつ、様々な苦難にも耐えに耐えて生きてきたのだった。それを百も承知の二世は、一世の親たちの祈りと願いに応えようとして立ち上がったのだった。
一世の親たちが、人種差別や迫害のために強制収容所に入っているというのは、子供である二世にとっては耐えられないことであった。その汚名をすすぐ唯一の方法は、二世がアメリカ兵として出征し、アメリカのために血を流すことであった。それなくして、アメリカに受け入れられないと信じたからである。
主イエスは私たちの罪という恥をすすぎ、その罪の報酬である死(ローマ6・23)を、私たちに代って十字架で死んでくださったことによって、天国への道が開かれたのである。その主のご恩に報いることが信仰というものである。
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