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《2019年石叫ライブラリー》日付をクリックすると『石叫』をお読みいただけます。
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2021.1.3 ローマ人への手紙1:16-17 杉村宰師 「私は福音を恥としな
00:00 / 19:27
2021.1.3 ローマ人への手紙1:16-17 杉村宰師 「私は福音を恥としな
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2021.01.10 榊原宣行師 申命記24:22「救いを記憶して」
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2/28/21
2/28/21
アーバイン日本語キリスト教会 Irvine Japanese Christian Church


Apr 12, 2026「沖へ出でよ」
イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。 イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。 そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。 そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。 とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆
Irvine Nihongo Kyokai
4月12日読了時間: 2分


タッキーのやっぱり聖書でしょ
今回は、最近趣味になっているウクレレについてです。よく見るウクレレ動画で、山口岩男さんという日本を代表するウクレレプレーヤーがこのように言っていました。 『最近の日本のウクレレレッスン動画を見ていると、とにかく「あれはいけない」「これはいけない」といった**「禁止事項」**が多すぎると感じます。 「親指を出してはいけない」「正しい持ち方はこれだ」といった画一的な指導は、一見親切に見えますが、実は教える側が「なぜその動きになるのか」を説明する手間を省き、楽をしているだけではないでしょうか。何も知らない生徒さんに対して、自分の「型」を上から押し付けるような姿勢には、強い違和感を覚えます。 海外の奏者たちを見れば分かりますが、持ち方は千差万別で、誰も「型」なんて気にしていません。ウクレレは本来自由な楽器です。ひたすら弾き込む中で、自分の体格や動きに最適化されたスタイルこそが、その人にとっての「正解」になるはずです。 視聴者の方からも「適当といういい加減で自由な弾き方が好き」という声をいただきますが、まさにその通りだと思います。音楽は「型」にハマることで
Rev. Jun Takii
4月12日読了時間: 3分


Apr 5, 2026「イエスの復活は天国への希望」
さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。 マタイによる福音書 2
Irvine Nihongo Kyokai
4月5日読了時間: 1分


タッキーのやっぱり聖書でしょ
この日曜日はイースター、復活祭です。主イエスが私たちの罪の為に死なれ、十字架に付けられ、死んで、墓に葬られ、3日目によみがえったことを、私たちクリスチャンが祝う日です。死をもovercame(克服した、乗り越えた、打ち勝った)したのがイエス。 でも、「一度死んで葬られた人間が、3日目によみがえるなんて、そんなことあるわけねーじゃん」と思われる人たちもたくさんいると思います。死んだ人がよみがえるなんてあり得ない、というのは一般的にはごくごく当然の意見だと思いますが、なぜそう思ってしまうのでしょうか?それは、「神様が存在する」という前提で話をしてないからです。神だったら何でもできたはずです。 色々なモノには前提というものがあります。その上で色んなことが成り立っています。 例えばテレビのドラマなどを見ても「このドラマはフィクションです」や、「実話に基づいた出来事です」など書いてある時があります。そういう前提を持って観ると、TVドラマや映画などの観方が変わってくると思います。 それと同様に聖書にも前提というものがあります。それは「神がおられて、全てを創造
Rev. Jun Takii
4月5日読了時間: 2分


Mar 29, 2026「あなたの隣人を愛しなさい」
彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」 律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。 そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」 イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。 マルコによる福音書 12:28-34 https://www.bible.com/bible/1819/MRK.1
Irvine Nihongo Kyokai
3月29日読了時間: 1分


タッキーのやっぱり聖書でしょ
ユダヤ人以外に福音が伝えられ始め、異邦人(ユダヤ人以外の民)が救われ始めた初代教会。 そこで出てきた議論の一つが、異邦人もユダヤ人のようにならなければならないか、ということ。そこで起こったのがエルサレム会議(使徒15章)。 エルサレム会議で決まったことの争点は、「 異邦人は救われるために割礼を受け、モーセの律法に従う必要があるか」、というもの。救いは律法や行いによるか、信仰や恵みによるか?その答えは「今は恵みによって救われている。律法ではない」と先週書かせてもらいました。 ガラテヤ5章にて、「キリストは自由を得させるために私たちを解放してくださったのですから、私たちは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい(1節)」、とパウロはハッキリと言います。 割礼を強要するユダヤ人信徒たちがいた。でもそれをしたら、イエスは私たちに何の益ももたらさないことになる、と(2節)。 割礼が必要だと言うようなら、律法全体を行う義務が出てきてしまう(3節)。律法によって義と認められようとしているなら、私たちはキリストから離れ、恵みから落ちてしまう(4節
Rev. Jun Takii
3月29日読了時間: 2分


Mar 22, 2026「御言葉の確かさ」
イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。 ルカによる福音書 4:4 https://www.bible.com/bible/1819/LUK.4.4.新共同訳
Irvine Nihongo Kyokai
3月22日読了時間: 1分


タッキーのやっぱり聖書でしょ
ユダヤ人以外に福音が伝えられ始め、異邦人(ユダヤ人以外の民)が救われ始めた初代教会。 そこで出てきた議論の一つが、「異邦人もユダヤ人のようにならなければならないか」、ということ。そこで起こったのがエルサレム会議(使徒15章)。 異邦人(非ユダヤ人)のキリスト教徒が救われるために「モーセの律法」を守る必要があるかという論争があって開催された。パウロの伝道で異邦人が増える中、律法を守らねばと主張する一部のユダヤ人クリスチャンたちがこれを主張し、教会分裂の危機を招いた為でした。 使徒15章のエルサレム会議で決まったことの争点は、「 異邦人は救われるために割礼を受け、モーセの律法に従う必要があるか」、というもの。救いは律法か、信仰か?その答えは結論から言うと「今は恵みによって救われている。律法ではない」(この使徒15:9-11でのペテロの言葉が涙が出るほど嬉しい!) 「神は異邦人の心を信仰によってきよめてくださった。だから異邦人に、ユダヤ人でさえ負いきれない重荷を負わせないこと。彼らユダヤ人でも出来ない事をなぜ異邦人たちに負わせようとするのか」、と。 使
Rev. Jun Takii
3月22日読了時間: 3分


Mar 15, 2026「心の汚れを洗い流す主」
また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」 これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、 総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。 しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。 ルカによる福音書 4:27-30 https://www.bible.com/bible/1819/LUK.4.27-30.新共同訳
Irvine Nihongo Kyokai
3月15日読了時間: 1分


タッキーのやっぱり聖書でしょ
信仰+何々=救いではない。そこに何か足したらいけない。イエスの死が無意味になってしまう。グッドニュースではなくなる!恵みから落ちてしまう。律法に逆戻りしてしまう。 天国に行く2つの方法 ①すべて救いを完成してくれたイエスを信じる。(←これしかないですが。) ②律法を完璧に達成する(←絶対に無理なんだけど)・・・もしこれで天国に行ったら「ちょっとそこどいてよ」と神に言って、神の席を奪おうとする。 ガラテヤ2:15-21でパウロは 「律法ではなく、イエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、我々ユダヤ人もイエスを信じた。肉なる者は誰も、律法を行うことによっては義と認められない!この神の恵みを無にしてはいけない。キリストの死を無意味、無駄死ににしてはいけない!」と。 札幌農学校に初代教頭として招かれたWilliam Smith Clark。クラーク博士の「Boys, be ambitious.青年よ、大志を抱け」は非常に有名ですね。 彼が着任する以前は、札幌農学校には色んな校則があったようですが、彼はたくさんあった校則をたった一つにした
Rev. Jun Takii
3月15日読了時間: 2分


Mar 8, 2026「宗教における本末転倒」
イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」 すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。 その日は安息日であった。 そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」 ヨハネによる福音書 5:8-10 https://www.bible.com/bible/1819/JHN.5.8-10.新共同訳
Irvine Nihongo Kyokai
3月8日読了時間: 1分


タッキーのやっぱり聖書でしょ
「信仰の冒険」という言葉がボクは好きです。 確実に成功することが約束されている事ならば、それは冒険と言いません。冒険というものは、「もしかしたら失敗するかも、どうなるか分からない、でもやってみる」、という響きがあると思います。 僕らは生ける神を信じています。(ただの倫理的な教えを説くだけの宗教ではなく。)それならば実生活の中で、自分の力に頼るだけではなく、もっと神にチャンスを与えて働いていただく、というのはどうでしょうか? アメリカの教会では「信仰を持って一歩踏み出す。Step out in faith」とかよく言います。伝道においても冒険をしてみる。伝道も自分の力だけでやっていませんか?自分の力、想定の範囲内のみ、自分の計算の外側には行かない、これまでの伝統の枠内だけで計算ずくな行動のみ、などなど。 クリスチャンとしての生き方においても、教会生活のなかで、伝道において、すべて自分のComfort zoneの中だけ、自分の中で計算して可能なことだけで、またこれまでと同じ形式に捕らわれて、伝統に縛られて、すべてをやってないでしょうか?教会というも
Rev. Jun Takii
3月8日読了時間: 5分


Mar 1, 2026「自分で聞いて、イエスが本当に世の救い主だと分かる」
さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。 そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。 そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。 彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」 ヨハネによる福音書 4:39-42 https://www.bible.com/bible/1819/JHN.4.39-42
Irvine Nihongo Kyokai
3月3日読了時間: 1分


タッキーのやっぱり聖書でしょ
サマリヤにて井戸にいた女性に対するイエスの態度、姿勢から、ボクらがどのようにして、この日本という文化、アメリカという文化の中において、クリスチャンとして行動していくべきかの参考にしたいと思います。 ヨハネ4章は、サマリアの井戸の横にいた女性の所に行った話。ヨハネはその前の章では、イスラエルの宗教的政治的社会的地位のトップの重鎮ニコデモがイエスと話してるところを描いた。そしてこの4章では、イスラエルの国の中で蔑まれていたサマリア人のその中でも、当時さらに最も下の下にいた女性、皆からのけ者にされていた女性のことを書いている。ヨハネがこの書を書いた目的は社会的地位の高い人から、社会で最も見下されているような人まで全て救いたいんだろうなぁと言う気持ちが見て取れる。 当時の慣習からしたら、ここでわざわざイエスがこの女性に会いに通らなくても良いような道を通って、わざわざサマリア地域のこの井戸のところまで来た。そしてこの罪の中にいた女性に対して声をかける。 4節 「サマリヤを通って行かなければならなかった」 ・・・サマリヤを通って行かなければ地理的に行けな
Rev. Jun Takii
3月1日読了時間: 4分


Feb 22, 2026「万事が益となる」
神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。 ローマの信徒への手紙 8:28 https://www.bible.com/bible/1819/ROM.8.28
Irvine Nihongo Kyokai
2月22日読了時間: 1分


タッキーのやっぱり聖書でしょ
最近は、礼拝ではヨハネの福音書、礼拝後や土曜日のバイブルスタディではエペソ書をやっています。 エペソ書前半では、私たちクリスチャンのアイデンティティ(誰であるのか)について書いてあります。 神、イエスキリスト、聖霊「にあって」、「によって」、「にしたがって」、「による」、というフレーズが30以上出てきます。英語では in Christ, according to God, by Christ, というフレーズが多く出てきます。 1章では、私たちが、 4-6節 御父によって選ばれ 7-12節 御子によって贖(あがな)われて(贖いとは、イエスが十字架の死という「代価」を支払うことで、罪の奴隷状態にあった私たちを買い戻し、罪の罰と束縛から解放して神との和解をもたらしたこと) 13-14節 聖霊によって証印を押された と分けられます。 ここで強調されているのは、私たちがクリスチャンとなったのは、『神の側での働き』ということです。確かに私たちの側で、その神の招きに応答したという側面はありますが、神が選ばれ、イエスによって贖われ、聖霊によって保証の印を押さ
Rev. Jun Takii
2月22日読了時間: 3分


Feb 15, 2026「主イエスの十字架のはじめ」
20イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。 21そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。 22皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」 23イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」 24そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。 25確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、 26エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。 ルカによる福音書 4:20-26 https://www.bible.com/bible/1819/LUK.4.20-26
Irvine Nihongo Kyokai
2月15日読了時間: 1分


タッキーのやっぱり聖書でしょ
新しい英単語を覚えて、そのすぐ後に誰かがその言葉を使った、なんて経験ないですか? たまたまかも知れないけど、その言葉は実は普通に話されていて、ただこれまで知らなかったから意識の中でスルーしていただけだったかもですね・・・。その単語をそれまで知らなかった、普段気にしてなかったから。 神様からの語り掛けも同じで、ある特定のことを考え出したら、なぜかその答えを教会でのメッセージとか、Youtubeとかラジオとかで聞いた、また状況から語り掛けられた、みたいな経験がないでしょうか。全く予期せぬ形で。 何か分からないことがあったら、神様に訊いてみる。そのことを気にしてみる。書き留めておいてみる。すぐに答えが与えられるかも知れませんから。 皆さんは、聖書の余白部分に色々と書き込みをされていますでしょうか?ただ聖句の横に線を引くだけではなく、 いつ(何年、何月、何日)、どのような状況で、誰に言われたのか? 自分がどのような状況だったのか? 何を神に祈り求めていた時に与えられたみことばなのか? その御言葉から、神は何をするように導かれたのか?...
Rev. Jun Takii
2月15日読了時間: 4分


Feb 8, 2026「サマリアの井戸にて」
イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」 ヨハネによる福音書 4:13-14 https://www.bible.com/bible/1819/JHN.4.13-14
Irvine Nihongo Kyokai
2月9日読了時間: 1分


タッキーのやっぱり聖書でしょ
「世の人は我を何とも言わば言え 我がなす事は我のみぞ知る」 これは幕末の志士・坂本龍馬が詠んだとされる、周囲の評価に惑わされず自分の信念を貫く姿勢を表した有名な言葉です。 「世間の人々が何を言おうとも、勝手に言わせておけばよい。私がなすべきことは、私自身だけが分かっている」、というなかなか力強い言葉です。 でも、龍馬のような一人でもやっていける信念があり精神的強さがある人ばかりではありません。私たちには自分の事を理解してくれる人が必要です。それは、理解者がいてくれるということは、私たちが生きていく上でかなり慰めになるからです。 私たちはこの世で生きていく限り、必ず人と関わりながら生きていきます。人と関われば、必ず誤解や衝突が生じます。こちらの意図を取り違えられたり、悪口雑言を言われたり、私たちが言ってないようなことをあたかも言ったかのように周りに言い広められたり。そこには相手を悪者にする悪意や妬み、足の引っ張り合いなどの心理が働いているのだと思います。 例え周りから誤解されても、そんな中でも一人でも自分の本当の事を知っていて、全て理解してくれる
Rev. Jun Takii
2月8日読了時間: 3分
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